〜震災〜あれからとこれからと
ども。
大阪 福島 野田阪神 Uen Osaka(ユーエン)代表
白シャツ美容師イシダオサムです。
長文です
3.11
忘れもしないあの日
当日僕は確定申告に追われて自宅にて事務作業をしていた
大きな揺れ
TVの中の人達の動揺
次々に映し出される現地のリアルタイムな映像
錯綜する情報
頭の中で整理できかねる現状
その映像に呑み込まれながら書類を携えて税務署へ
順番待ちの人々の口から伝えられる見知った情報の数々
僕は思い出していた
1.17阪神淡路大震災の時
当時23歳の僕は神戸の美容室で勤務していた
スタイリストで結果を出していてお世話になったサロンを一月末で円満退社でいざ東京で自分を試したい、チャレンジしたいと
1/25で退社前の出来事
当時の成人式は1/15と固定されていた
その成人式が月曜で翌日の火曜は代休
明けの17日からの営業前の早朝の出来事
最初の縦揺れで当時の寮(と言ってもマンションに男3人が同居している程度)の中の立っている物というモノが全て倒れた
僕は間取りの関係上ダイニングに部屋と呼ぶには程遠いスペースに居をこしらえていた
大型冷蔵庫や頭の横にあるAV機器がこちらに倒れてきていたら間違いなく即死でした
でも生きていた
ひとたびドアを開ければ近くの商店街から火柱が上がっていた
電気も止まった状態で全容もわからぬまま先輩達と「今日は仕事があるのか?」など話していた
それから当時のお付き合いしていた方の実家に自転車で移動
その途中にはありえない盛り上がったアスファルトや原型のわからぬ家屋の数々
救助活動しながら到着した家で初めて目にしたTVの中の映像
「これは何の映画の映像かな」
それが今の自分達のいる地域の映像だと理解が追いつかない
10日以上風呂にも入れなかった
毎朝震災の同じ時間には勝手に目が醒める
そのお世話になってる家庭のお父さんが中央市場で働いておられた関係で知人達に食料をバイクで被災体育館に運搬したりボランティアでカットしたり
頭が洗えない中でもカットしたら
「さっぱりしました。ほんとありがとうございます。ありがとう」
という言葉をもらうたびに流れる涙
家族を亡くされた方々
住まいを無くされた方々
経験はないがほんと空襲の焼け跡のような光景はこんなんだったんだろうと
僕は結局東京へは行かなかった
当時カリスマブームの前
有名店に内定ももらっていたが行かなかった
いや、行けなかったんだろう
3.11を経験された方々も色んな心持ちの方々がいるのであろう
当事者でなければ風化していく感覚
でも僕は忘れない
様々な人たちが前を向いて少しずつだか歩んできた道
立ち止まってもいい
振り向いてもいい
だけど足は前を向いててほしい
明けない夜はない
1.17
僕は生きていた
でもその後に想う
“僕は生かされたんだ”と
3.11
皆の様々な想いが募る日
やれる事を僕のやれる範囲でしかないけど少しずつ少しずつ
周りの携わる方々を笑顔にできる人でいたい
黙祷
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